神様への対応の仕方──礼の仕方というのは、いろいろとありますが、では正しい願いの仕方というのは、結局どういうことなのでしょうか?
ここでは願い方について大きく3つの要点を解説したいと思います。
由来と儀式を尊重する
願いをかけることで、先ず最も大事なものを2つ。それは由来と儀式です。
当たり前の話ですが、恋愛に強いと言われる由来のある神社や場所、あるいはお守りに、違うものを願っても叶いませんよね。そして、願いというのはそういうバックボーンに影響を受けるというのは、さんざんこのブログでも申し上げているとおりですね。
まず第一に由来を尊重しましょう。
続いて、その願掛けのプロセスというのは、儀式です。儀式というのは、願いを遂行するための意識になります。
たとえば、神社を参拝するためには、手を洗ったり、鳥居に会釈したりと、儀式があります。この時点で、願いの書け方というのは始まっているのです。正しい由来の神社に正しい儀式をして参拝し、願いを込めると何が起るのか? それは、願いに意識がまわることで、願いの強度が増すのです。これも同ブログではいつも言っていることですね。
まず大前提としてこの2つ「正しい儀式」と「由来を知ること」はかならずやるようにしましょう。
供物とセットで願をかける
続いて、願いにプラスアルファをもたらすもの。
願いというのは、供物を捧げることで効果を発揮します。
これもよく言われる話ですが、たとえば神社には賽銭を投げ入れますね。このお賽銭というのは、願いに対する最低限の供物な訳です。
神様、お金を納めますから願いを聴いてください、と。ギブアンドテイクです。基本的には願いは供物とセットで行われるものです。中には、お酒を収める人もいるでしょう。一万円を収める人もいるでしょう。
これは供物というのは捧げたことに願いがつくことによって、願いの意識付けがつよまるために行われているものです。
でも、実はこのギブアンドテイクの供物と願いの関係というのは、ちょっとちがうふうにも捉えることができるのです。
例えば「◯◯の願いが叶うまで髪を切らない」という願掛けをする人がいます。これはいっけんなにも捧げていないように見えますが、実は「神を切る/切らない」という条件と行為の捧げものを神様にしているのです。
これも同じく意識付け=供物の一つと考えることができるのです。
この供物のすばらしいことは、髪の毛は身にまとっているものですから、常に願をかけたものがそばにあること、それによって、常に願いを意識することができるということです。
そう考えていくと、願い方とは非常に柔軟なものになります。
たとえばサッカーのミサンガも、切れることを前提に願いをかけます。これは逆説的に切ることは願いが叶ったか、叶わないことが確定した、という状態を表しています。これは、何かの持ち物を目につく、ちょっと邪魔なところに持ち歩き、叶ったら捨てる、という考えによる意識付けをしているのです。
そして、ミサンガをつけた人は、少なからず「そうなるように努力する」でしょう。
そういう、状況を供物にささげる、という願掛の仕方もあるのです。
具体的/定量的な目標を定める
さて最後に、もう少しリアルでズルい願いのかけかた。
例えば、健康についての願いでいうと、今年一年健康でありますように、と願うことがありますよね。それはそれでいいのですが、ここはもう一つ踏み込んだ願いごとをしましょう。
先程伝えた、状況の供物をセットで行うのです。
「今年一年健康でいられますように」ではなく「健康のために毎週3日のウォーキングが行えますように」とするのです。さらにそれを象徴するアイテムを用意するのがのぞましい。運動靴とかでもいいかもしれませんね。これによって、状況と物が願いに縛られることによって、願いに強制力が発生します。
ちょっとライフハックみたいな話になっていますが、意識付けという話でいえば、それらは似たものになるのも当然です。
そうして、人物事を定量的に関連づけることによって、より具体的に願いの結果を出せるようにするのです。
これが、令和の正しい願い方なのです。